自然界の摂理は生き物に二通りの死を与える。
 食べられて死ぬか、それとも死んでから食べられるか。
 人は行動と意志の力が自らの最期を決めることもある。すなわち惜しまれて死んでいくか、棄てられて死ぬか。
 そしてベー・ヴィクティスは、訪れる者を気まぐれに選り分ける。
 今すぐ死ぬか、もう少しあとで死ぬか、と。




2nd End 『 豪華林檎と罪の海と、』


 さよなら、とサヤメは声にもならない声で囁いた。
 誰かを想うわけでもなく、誰かに残す言葉でもなく、死を覚悟した間際に、それは緑成す山腹の湧水に似て無色透明の清冽な気持ちだった。
 生きていたいとは願わない。死にたいわけじゃないけれど、生き続けることへの執着が何故だか心のどこにもないから。
 さよなら、ごめんなさい──。
 貰ったばかりの花模様の綺麗な着物は、きっと黒いクリオネの鉤爪で紙のように引き裂かれる。白いクリオネに頭を噛み砕かれて着物は血に染まるだろう。だから、謝った。
 ごめんなさい──。
 二羽は鳴いた。首を高く上げて交互に何度も鳴いた。その姿はサヤメの目に獣の哮りとも映り、鳥の囀りにも聞こえた。
 何かを確かめるようにサヤメの身体に顔を近づけては嘯き、再び確かめて天に向けて囀る。そんな仕草をクリオネたちは繰り返した。嘴に残る血は今さっき喰われた男のものだ。二羽が頭を振るたび、地面の砂とサヤメの上に小さな赤い斑点が付け足されていった。
 ……わたしを食べないの? もういらないの?
 一抹の安堵は、すぐさま悲嘆の泥に埋もれた。
 また人形みたいに、わたしを振り回して遊ぶつもりね──。
 子供にむしり取られ、その場に無造作に打ち捨てられた花はおそらくこんな気分だろうと思った。もう生きることはできず、まだ死んでもいない。遣り場のない痛みこそ意味もなく辛い。
 クリオネは倒れているサヤメの背中を頭で押した。一羽がそうすると、正面にいるもう一羽も真似た。砂にまみれた少女の身体が何度も同じ場所を這うように往復する。
 そんな二羽の様子に昨日とは違うものをサヤメは感じとった。手で押し返そうとすると押すのを止め、何かを請うようにじっと動かない。手を離すとまた押してくる。羽毛はヴェルヴェットの手触りに比べても、ずっと滑らかで見た目より厚みがあり、そして温かだった。



 わたしに撫でて欲しいの……?
 そう思わせる親しげな素振りを、クリオネたちはしているようにサヤメには見えた。しかし撫でようとした途端、伸ばした手が身体ごと振り払われてサヤメは激しく撥ね飛ばされた。戸惑う間もなかった。紅い夜空を背にして威圧感のある大きな影が迫ってくる。降り注ぐ数百もありそうなガラスの薄片は鳳凰蝶(ほうおうちょう)の群れだった。
 次空間経路であるイーヴァムは、ベー・ヴィクティスの真上に拓いていた。綴じていくエントランスの渦はまるで目眩にも似ている。
 エニグマの翼の風圧が巻き上げた砂塵の中へ、熟れすぎた果実が地面で潰れるように、女の悲鳴が落とされた。クリオネたちは苦しげに呻いている声に駆け寄り、それを奪い合うように咥えて何度も高く放り飛ばした。女の華やかなドレスは引きちぎられ、雪の白さで輝く肌や黒檀を思わせる長い艶髪を真っ赤な血が濡らしていった。人間が発したとは信じ難い、火のような絶叫に幾度も空気が慄える。それが途絶えた後も、サヤメの前でクリオネたちの他愛ない行為は続いた。
 いつまでも崩れずに保たれた四肢は、女を“餌”と呼ばせなかった。それはただの屍骸、その惨い光景はどこか処刑じみた印象をサヤメに与えた。
 だが可哀想だとは感じない。さっきの男に対してもそうだった。何がそうさせるのか、サヤメは気づいていなかった。
 周囲では光蜥蜴(ひかりとかげ)が鳳凰蝶を次々と捕食している。発光に鳳凰蝶が引き寄せられるせいで何なくそれができた。蝶を捕らえた個体からは光が消え、辺りが少しずつ暗くなっていった。
 ギャッギャッギャッギャッ! と今まで凝然と見ていただけのエニグマがこちらを振り向き、威嚇の鳴き声をあげた。
「──馬鹿かっ、あんたはっ」
 サヤメの腕を掴んだゲルニカが怒鳴った。
「立てる、立てない!? どうなの!!」
「あ、わたし……」
 返事を待たず、肩の抜けそうな勢いでサヤメは乱暴に引っ張られた。
「ロープの懸かってる縁まで走って──、走れ!」
 その言葉に気圧されたように一歩踏み出すと、背中を突き飛ばされたサヤメの身体が二歩三歩と砂にバランスを失いながらも前に進んだ。
「──ごめんなさい……」
 ゲルニカの耳には届いていなかった。まるで目が覚めたように一生懸命にサヤメは駆けていた。破れて幾筋にも割れたパニエは走るには好都合だった。



「また刺されたいの!」
 “刺す”────?
 振り返ると、ゲルニカに対峙して黒い羽根を目一杯に展げるエニグマの姿があった。半身を覆う羽毛は逆立っていた。
「──ゲルニカ!」その一言にサヤメはいくつもの意味を込めた。
 踵を返したゲルニカは穴の縁の手前にいるサヤメを掴まえて、そのまま速さを緩めずに跳んだ。
 一度目との大きな違いは意識があることだった。意識のある状態で深い暗闇に墜ちると、上下感覚と時間感覚が同時に奪われるのだと解った。浮いている自分に向かって、ばちばちと枝葉が四方から飛んでくる。そして突然、冷たい水の塊に全身の自由までも奪われた。
 待ち構えていたノイが着物から素早く身体を抜き取ってくれたおかげで、ほとんど水は飲まなかった。
 やや遅れて水窟に落ちたゲルニカは、ノイに曳かれるサヤメより先に自力で浅瀬に辿り着いていた。

「死ぬときはあたしの見てる前で堂々と死ぬか、ぱっと消えて無くなるかのどっちかにしなさい」
 とゲルニカは水を吸って重そうな服を脱ごうともせず、サヤメを見ようともせず、仰向けのまま言葉を絞った。
「……はい」
「そんな神妙な返事してくれなくていいよ、親兄弟が人生訓授けてるんじゃないんだからさ」
「どうして上に行ったの?」
 布切れ一枚に包まって地面に小さく座るサヤメの髪を、ノイは後ろから櫛で梳かしていた。その手つきは楽しげで、黙っていれば何時間でも続けていそうな様子だった。
「わたし、自分がどんな罪を犯したのか知りたい……」
 モノローグのようにサヤメは呟いた。ゲルニカは投げやりと叱責をない交ぜに、
「で、エニグマは親切に教えてくれた?」と嘆息し、柔らかに付け足した。「その前向きな気持ちは褒めてあげるけど」
「そうかしら、思い出さないほうが幸せでいられることもあるわ」
 背後から放たれた言葉は、軽々しい重たさでサヤメの胸をすり抜けた。ノイの表情は振り向けずにいて見えなかった。
「あなたが何も知らないことを私はよく知ってるわよ。ここで過ごすには、それで充分じゃない?」
 それは哲学者の言い訳にも負けない難解さで、そのままでサヤメは上手く嚥み込めなかった。
「え?」
「サヤメの記憶がノイには読めるのよ、そうやって触られてると」
 身体の触れた対象が憶えている“場面(セーヌ)”を読み取ることがノイにはできるのだとゲルニカは言う。
 ただし単純に“出来事の羅列”という形でのみ伝わり、心を盗む読心術とは違う。たとえば昨日誰かと過ごした一日の情景は詳細に見えても、相手を好きか嫌いかというような思考の中身は伝わらない。
 そして本人が思い出せないことはノイにも解らない。
「ひとつ教えてあげる、天蓋であなたを襲ったのはバラクーダ。少し前に来た男よ」
 とノイが言った。サヤメが反応するより先に、跳ね起きたゲルニカの顔色が変わった。
「クーダがいたの!? 生きてたの……なんであいつが! あのチルヴィチォーク……──」
 続けざまに繰り出される過剰な悪態の比喩を、やはり半分すらサヤメは理解できなかった。
「とっくにクリオネに喰われたと思ってたのに!」
 吐き捨てるようにゲルニカは言った。
「あの人は生き物じゃなかった……でも全部クリオネが食べたのよ。ひとかけらも残さず全部。とても怖かった……」
 男の体に金属片のような異様な何かが混じっていたのを、愕きとともに思い返して身震いした。この体験の中で唯一本当に恐ろしいものといえばそれだけだった。その姿はどこか反道徳的な歪(いびつ)さで感情に覆いかぶさり、サヤメの気分を一方的に撹拌した。
「心も体も普通じゃないんだよ、あいつ。……あたしも他人のこと言える女じゃないけど」
「クリオネは人間の肉を食べるんじゃないわ。その“罪”を食べるの。どんな身体かなんて関係ないのよ」
 サヤメが初めて見せた戸惑いに、ゲルニカとノイは半分ずつ答えた。
「きっとサヤメの姿がヒメに見えたのよ、ヒメの着物を羽織ってたから。バラクーダはね、──」
「ノイ、やめな」
 台詞に割り込んだゲルニカを気にも留めず、
「クーダはヒメをとても好きだったの。だから──」
「ノイ!」
「だからクーダはヒメを殺したの」
 その言葉はひどく異質だった。受動的な死をただ待つだけのベー・ヴィクティスにあって、じめついた陰惨な空気に抗う蠱惑の輝きをそれは放って聞こえた。
「……ノイ、それ以上は本当に」
「ふふ、ゲルニカが怒ってるからやめておくわね」
 それきり会話は途切れた。三人共この場を解く機会を逸して、一言も発せず誰も動かなかった。
 しばらくしてゲルニカだけが立ち上がり、黙然とロープを手繰って暗い樹幹を登っていった。篭の格子を上下させる鈍くて冷たい音は、まるで監獄の黴臭さで塔内に響いた。



「ヒメみたいな死なれ方はもう嫌なのよ、ゲルニカは」
 川面の不用意な瓦礫に引っ掛かった葉片が再び流れに乗るように、ノイの口元が動いた。
「クーダがヒメに何をしたのか知りたい? あなたも子供じゃないんだから理解できる事よ」
「それは……いい。好奇心で聞いたりするのはその人に……ヒメに悪いみたいだから」
 サヤメは背中を少し屈めて、足の爪先についている砂を指で何げなく払い落とした。
「どうして悪いって思ったの?」
「……わからない。けど、なんとなく……」
 ノイはサヤメの髪を梳かしていた手をようやく膝に降ろし、物語(レシ)っていうのはね、と折り紙の鳥に想いを込めて折るようにこう言った。
「誰かが聞いてあげなければ“物語”にならないまま、その出来事はこの宇宙から永遠に消えてしまうの。どんな物語もそれを聞く人がいなければ生み出されなかったのと同じこと。でも、もし私がヒメの最期をあなたに語ればそれはヒメの物語の一部になってしまう。その場面(セーヌ)を誰にも語らない事が、ヒメをいつまでも綺麗なままでいさせてあげられる方法」
 ノイはそこで口を綴じた。そして不安げに振り向いたサヤメと目が合うのを待って、
「ゲルニカより先に死んじゃ駄目よ、あなたは私と違って好かれてるんだから」
 と紅玉の瞳で微かに笑みを造った。それは本当の磨かれた鉱石に違いないとサヤメに思わせ、もっと近寄って覗き込んで確かめればいいのにと自分だけが誘われているような嬉しい気持ちに少しさせた。
「私に訊きたいことがあるなら今のうちよ。たとえばクリオネがあなたを食べなかった理由──」
 サヤメは何の疑念も抱かず、一心不乱にノイの口舌へ耳を傾けた。血のついた細い布の切れ端が一枚、舞いながら降ってサヤメのすぐ横に伏せたことにノイだけが気づいた。それは夜毎、天蓋から落ちてくる様々なモノの中でいちばんありふれた一つで、大きな塵埃ほどの意味合いしかなかった。
「クーダと同じで、たぶんサヤメをヒメだと思ったんだわ、着物がヒメの匂いだったから。あの二羽はヒメにだけは懐いてたの」
 いま天蓋にいるクリオネたちが卵から孵ったとき、最初に餌として与えられたのが鯊鵺天媛女(さやあめのひめ)──ヒメだったとノイは語った。
「それだけでクリオネが?」
「懐いていたのには別の理由があったのかもしれないけど……、ヒメは何も教えてくれなかったの。誰かが馴れ馴れしく自分に触れることも許さなかった。とても清廉で……。エニグマが間違って連れて来たんじゃないかってゲルニカが冗談を言ってたぐらい」
 それは詰まらない疑心だった。そんなものなら虚構で描かずとも幾らでも道端に生えている。のうのうと生き続ける裕福な盗人や、自由のラベルを貼った猛毒や、疫病を振り撒く信仰心、正しくない秤、理不尽な賛美に見張られて苦しむ潔白な人々……。現実は嘘でそれらを覆い隠そうとし、フィクションはもっと大きな嘘を駆使して彼らを白日に晒す。
「エニグマが間違うことなんてあるの?」
「無いわ。親鳥が雛に食べられない餌を持ってこないのと一緒よ、私が来る前はどうだったのか知らないけどね」
 ノイはどれくらいここにいるんだろう──、とサヤメは思う。ゲルニカは自分のほうが後だと言い、もう数百日は経ったと言った。ここは一年という計り方ができないからねと、それだけ言っていた。
 ノイは……?
 しかしサヤメは訊けなかった。もしその問いが済んでしまえば、次は“罪”の部分を訊かなければ不自然な気がしたから。そして『あたしも忘れたよ、サヤメみたいに』とゲルニカのように軽く受け流してくれない気がしたから……。
 それよりも、もっと真っすぐな気持ちで訊きたいことがある。
「あのねノイ……。ここに来たとき、わたし何かを手から落とした気がするの。それが何か分かるなら教えて」
「言ったでしょう、サヤメが思い出せない情景は私にも移らないの。あなたが自分で心の中から拾い上げるしかないのよ」
 ノイはそういうつもりで言ったわけではなかったが、甘えたくて伸ばした手を軽く叩かれた子供のように、サヤメは目を逸らして少し寂しげな横顔を向けた。
 光蜥蜴の小さく無数な発光は近くの暗闇をまんべんなく薄明らかにするので、サヤメの周りに影は像られなかった。けれどサヤメの身体から放たれていないはずの光が自分の背後に一段黒い影を落としているように感じたノイは、そっと振り返って見てみた。それは見えなかった。
「そうだわ、ヒメはクリオネたちに名前なんか付けてたのよ」
 ノイは頬杖をついて言った。そこはちょうどサヤメの顔の高さだった。
「……名前?」
「サヤメも考えてあげれば」
「ヒメはどんな名前で呼んでたの」
「何だったかしら、シャ……とか、クウ……、よく憶えてないわ」
 とノイは立ち上がった。
「名前……」
「戻ってくるまで考えておいてね」
 片方の足頸の枷(かせ)に残った短い鎖の端が、ノイの歩調に合わせてまるで気の利いた装飾品に紛う澄んだ音色を奏でた。実際その足輪は金緑の蛇を模した手の込んだ造形で、足枷に似せただけの工芸品かもしれないとサヤメをずっと惑わせていた。
 そして三人の中でいちばん低い位置にある自分の篭へとノイは上って行った。ゲルニカに比べるとずいぶんおぼつかない身のこなしで、わたしの方が巧いかも、などと詰まらない優越感がこっそりサヤメに芽吹いたりした。さっき落ちてきたはずの血のついた服の切れ端はサヤメの側に無く、いつのまにか遠くに棄てられていた。
 クリオネがひとつ鳴いた。もう一度鳴いた。
 あとからエニグマが運んできた女も同じように二羽に食べ尽くされたのかなと思うと落ち着かず、得体の知れない何かが肩越しに自分の残り時間を読み上げている気がする。
「いいのは浮かんだ?」
 肩越しにコサージュの束が差し出された。
「わあ……」
「やっぱり似合うわ」
 本物の花の鮮やかさは欠けていても、色とりどりの布で編み合わされたコサージュは、薄闇に侵されることを拒む確かな生命感を醸し出していた。
「ぜんぶノイが作ったの?」
「そうよ。好きなのを選んで」
「わたしに?」
「ここには花が無いでしょ。あなたみたいな人が来たら髪を飾ってあげようと思ってたの。ひとつ結んでみるから動かないで」
 ただの模造の花弁であることを知られていようと、その布切れが何から千切り取られたものなのかを察していようと、葩(はな)の造形はサヤメの髪に瑞々しい陽春の光を想わせながら咲いた。
 触れてみると自分の新しいシルエットが自然と頭の中に思い起こされて、不必要に身体がバランスをとろうとするのが可笑しい。
 真っ白なコサージュもあった。サヤメの着ていたドレスと同じ白だった。ドレスから咲いた葩だった。
「つけてみる? それは最初からあなたのだから」
 サヤメはすぐには言葉を返せずにいた。このコサージュをつけた自分は、もう永久に“サヤメ”を演じ続けなければならない錯覚がした。もう何も思い出さなくてよく、思い出せないその罪からさえも解放されてしまう気が……。
 それはノイにも伝わった。自身の特別な能力によってではなく、サヤメの僅かな戸惑いを感じて。
 だから、そこには言葉を継がず、
「見せられないのが残念なくらい可愛いわ。他のも試してみるわね」
 水窟を満たす真水は絶えず動いて落ち着きがなく、たとえ煌々とした明かりを持ってきたとしても水面を鏡の代用にはできないのだった。
 髪から外したコサージュはサヤメの膝に置かれた。サヤメの膝の上は、まるで小さな花篭だった。



 花は──、とサヤメは言いかけて止めた。そしてこう言い直した。
「わたし、花が好き」
「花を好きじゃない女の子なんているかしら」
 ノイはその小さな花篭から別のコサージュを摘むと、サヤメのマルガリータブロンドの髪に綺麗に咲くかどうかと意匠に思いを馳せた。
 一呼吸してサヤメは続けた。
「この大きな樹はリンゴで、花が開かないって本当?」
「ゲルニカが言ったのね、本当よ。どうしてかは訊かなかった?」
「ノイに教えてもらえって……」
 サヤメの背中でくすくすとノイは笑った。ゲルニカ……、と半分呆れた小声が最後にひっそり付いていた。
「どんな理由だとサヤメは思うの」
「老木だから? 季節が変わらないから?……」
「いいえ、この豪華林檎(ごうかりんご)の樹が自分で決めたことだからなの」
「豪華林檎って言うんだ。……それが自分で?」
 眼を輝かせて部屋で待っていた幼い子供に言うように、こんなふうにノイは前置きした。
「ちょっと長いけど、終わるまで行儀よく聴いていられるなら話してあげるわ。この豪華林檎の樹が憶えてる物語(レシ)を──」
 そのコサージュは最初のより大きすぎて、あまり似合わなかった。髪型も変えてみなきゃね、ともうノイは楽しすぎて仕方がなかった。
「聞きたい」とサヤメは口の中で言った。「聴かせて、ノイ」と今度ははっきりと言った。

 その冬はいつになく雪がたくさん降り積もりました。ある晩、立派な城に住んでいる見目麗しい王妃に娘が一人生まれました。
 幼い娘は気立ても良く、王や王妃や城の家来たちからたいへん愛されて育ったので、成長するほどにその美しさは朝の太陽に目覚めていく花畑に似て「いずれ王妃さまより数倍も美しくなられるに違いない」と国じゅうで噂されるようになりました。
 はじめは王妃に気兼ねしていた家来たちも、いつしか若い娘の美しさの方ばかり話題にして誰も王妃を褒めなくなりました。王さままでもが王妃を忘れて娘のことだけ気にかけるようになっていきました。
 すると王妃の母としての愛情はやがて女の嫉妬へと向きを変え、ついには“娘を殺してしまおう”と思うまでになりました。
「この子の美しさを今のまま終わらせてしまえば、この国で一番美しいと呼ばれ続けるのは永遠に自分であるはずだ」と王妃の卑しい自尊心は考えたのです。
 母親の恐ろしい企みに気づいた娘は、その日のうちに何も持たず裸足で城を抜け出し、一度も後ろを振り向く事なくどこまでも黒くてどこまでも深い森へと入っていきました。
 三日間も何も食べず一睡もせずに歩き続けた娘の足は、真っ赤に腫れ上がり傷だらけでした。ふらふらになっていた娘は地面に空いた大きな穴に足を滑らせて落ちてしまいました。
 穴の中では七人の地の精が金や銀を採掘する仕事をしていました。事情を聴いた地の精は、自分たちの小屋に娘を連れ帰るのはどうかと相談を始めました。六人は賛成し、反対したのは一人だけでした。
 娘は七人の地の精が暮らす狭い小屋で、家事をするかわりに一緒に住まわせてもらうことになりました。
 このことを“世界のすべてを映し出す全知全能の鏡”の密告で知った王妃は、森に入って娘を殺すよう家来に命じました。
 ところが、なかなか思いどおりにいきません。
 ある者は道に迷い、ある者は狼の群れに襲われ、ある者は殺した証拠だと偽って豚の内臓を持ち帰ってきました。娘のまだ生きている姿が鏡に映っているのを見た王妃は、その家来を豚の餌にしました。
 業を煮やした王妃は自分の手で娘の命を奪おうと決めます。
 けれど鏡は未来も知っていました。王妃が毒のリンゴを娘に食べさせようと計画していることまでも。
『娘は素敵な王子に命を救われて愛し合い、婚礼の席に招かれた王妃は真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされて惨めに死んでしまいました。──これが物語の結末です』
 その場面を見せられた王妃は、また一計を案じました。「娘に成りかわって、この若い王子を自分の物にしてしまおう」と。



 王妃は心の醜さのせいですっかり顔つきが変わり、もう誰も美しいとは思いませんでしたが、王妃自身は気づいていませんでした。鏡に映る姿は無垢な少女のように若々しく輝いていたからです。
 “世界のすべてを映し出す全知全能の鏡”は、世界の半分が〈真理〉で半分が〈虚像〉なのだということをよく知っていました。
 鏡の助言に従った王妃は苦もなく小屋を見つけだし、休んでいた娘の口に毒薬を直に流し込みました。娘はみるみるうちに身体が茶色くなり、虫のように転がって死んでしまいました。
 王妃は娘が息を吹き返すことを惧れ、地面を掘り返して屍体を埋めました。手のひらは皮が剥けてたくさんの傷ができましたが、それはちょうど娘が懸命に働いてそうなったのと同じ手になり、まさに一石二鳥でした。
 王妃はリンゴの切片に自分の記憶と烈しい欲望を残らず封じて呑み込みました。すると王妃の姿は娘そっくりに変わり、ぴくりとも動かなくなりました。
 やがて仕事から帰ってきた地の精たちは、息もせず倒れている娘を見つけて心臓が潰れるほど驚き、三日三晩のあいだ悲しみ続けました。六人は涙が涸れてしまい、一人は喉が嗄れてしまいました。
 そのとき逞しい馬に乗って森を通りがかった遠い国の王子が、森の端まで響きわたる泣き声を耳にして何事かとやってきました。娘の亡骸はガラスの柩に収められ、地の精たちが蓋を閉じようとしているところでした。
 とても哀れに思った王子は、柩の側に跪いて一緒に祈りを捧げたいと申し出ました。地の精たちは相談を始めました。六人は賛成し、反対したのは一人だけでした。
 王子は柩に横たわる娘の美しさに心を奪われました。娘の頬はまるでまだ生きているかのように艶やかで、紅い蘭の花びらを想わせる鮮やかな唇は活き活きとした潤いに満ちていたからです。
 王子の深い哀れみは同じ強さのまま愛しさへと形を変え、その柔らかな場所に思わず口づけをしました。ほんの少しの温かさが娘から伝わってきて、王子は驚きました。
 すると娘は喉に詰まっていたリンゴを吐き出して目覚め、地の精たちに一言の礼も言わず王子と共に馬に乗り、長い黒髪を揺らして楽しげに去って行きました。
 それが本当は娘を殺した王妃であることを誰にも知られないままに。

「……ひどい王妃さまね」
 とサヤメは眉をしかめた。
「この王妃なら、もしエニグマに連れて来られても自業自得よね。クリオネの餌にされても可哀想だなんて誰も思わないはずよ、きっと」
「そうかも!」
 まるで他人事のように、きっぱりとサヤメは応えた。まだノイのお伽噺しは続いていた。

 数日後、吐き出されて地面に落ちたリンゴから小さな芽が生まれました。一粒の黒い種が紅色の皮と白い切片の中に隠れていたのです。
 でもその真下に本物の娘の屍体が埋もれていることに地の精たちは気づきません。小さな双葉は王妃の記憶と烈しい欲望を染み込ませたまま若木になり、優しい地の精たちに見護られながら、王子と暮らす娘の幸せが永遠に続くよう大切に育てられました。
 一千と数百年が経ち、地の精が森に一人もいなくなったころ、そこはリンゴの樹でいっぱいになっていました。そして秋になると一斉に実る黄金色に輝く果実から“豪華林檎”と呼ばれ、その実はどんな願いでも叶える不思議な魔力を持っていることが国じゅうに知れ渡っていました。森は“雪白の楽園(パラディスニーヴァイス)”と呼ばれていましたが、いつ誰が付けたのか理由も意味も分かりません。
 やがて国王は森を拓いて村をつくらせました。豪華林檎を盗もうと森を荒らしていく悪い考えの人間たちが後を絶たないからです。
 森の管理を任された村の人々は、それぞれ一年にひとつだけ豪華林檎に願いを叶えてもらえる権利を国王から与えられました。
 豪華林檎は村の大人たちの真剣な願いを叶え続けました。けれど彼らの願望はあまりに身勝手なものばかりでした。



 村には双子の姉妹がいました。姉の名はアプフェリス、妹はニーニャといいました。
 アプフェリスの背中には、まるで羽根をもがれた鳥のような二つのアザが生まれたときからありました。ニーニャにはありませんでした。
 二人はとても仲が良く、遊ぶときも寝るときも一緒でした。アプフェリスが膝を擦りむいて泣くと、ニーニャもわざと転んで同じように泣かずにはいられませんでした。
 姉妹が十五歳になった年の秋、豪華林檎に願いを叶えてもらうことが初めて許されました。それは儀式のようなもので、大きな鳥篭に入ってリンゴの果汁を飲み、叶えて欲しい願いを叫ぶのです。もし恐ろしい願いをしたなら一生その鳥篭から出してやらないぞという、うわべだけの道徳心に酔う大人たちを喜ばす類いのものでした。
 同じ鳥篭の中へ二人は一緒に入りました。
 アプフェリスとニーニャには心に想う男の子がいました。けれど年頃になっていた二人は、それだけはお互い秘密にしていたのです。
 両手一杯に注がれたリンゴの果汁を飲み干し、二人は鳥篭の中から同時に叫びました。
「私の好きな人が、私だけを好きになって欲しい」
 すると周りで見ていた村人たちの中から、一人の男の子が鳥篭に駆け寄りました。男の子はその手を引いて少女を鳥篭から降ろすと、強く抱き締めてこう言いました。
「そんな願いなんか必要ないよ。僕はずっと好きだったんだ、ニーニャ」
 ニーニャは嬉しすぎて卒倒しそうになりました。
 不思議なことが起こりました。アプフェリスが鳥篭から外に出られなくなってしまったのです。扉は閉まったまま動かなくなり、困った大人たちが大勢で鳥篭を壊そうとしましたが、どんなことをしても疵ひとつ付きません。
 それは二人が同じ願いをしたせいなのだとニーニャはすぐに分かりました。最初から叶えられていた自分の願いのせいで、他人の愛を奪うという〈恐ろしい願い〉を姉にさせてしまい〈そんな子は鳥篭から一生出してやらない〉という大人たちの馬鹿げた嘘を豪華林檎は叶えたに違いないと。
 悲しみに沈むアプフェリスを誰も慰めることはできませんでした。
 ──その夜、森は大きな炎に包まれました。こんな森は燃えてしまえと誰かが願ったのです。
 アプフェリスでしょうか、ニーニャでしょうか、それとも村人の誰かでしょうか。豪華林檎が人間の願いを叶えることを嫌になり自分で火をつけたのかもしれません。
 炎は村をも焼き尽くし、村人はすべて犠牲になりました。
 焼け残った樹が一本だけありましたが、もう二度と花を咲かせて実をつけようとはしませんでした。
 そしてまた一千と数百年が経ち、森のあった土地に楽園(パラディス)の名を冠した街ができました。もちろんその名の由来となった豪華林檎の村の話を信じる人は誰もいません。けれど教会の庭にある老木の枝に一度だけ黄金の果実が実った年があったのです。
 それはまるで豪華林檎が自分の犯した多くの罪を償うように、生まれつき羽根の小さな飛べない小鳥の、空を飛びたいという願いを叶えてあげるためでした。

「こんな大きな樹をエニグマは持ってきたの!? じゃ、あの鳥篭って……」
 とサヤメは背中を反らし気味に感嘆の眼差しで見上げた。あまり光ってない光蜥蜴が何匹かいる以外は、ほとんど闇しかなかった。
「残念だけどあれはその鳥篭じゃないの。この樹が憶えてる鳥篭の形と全然違うし、数も違う。それにアプフェリスの鳥篭にはブランコもギャスケットも付いてないわ」
 ノイはサヤメの眼を逆さまに見つめて「名前も“ジュリア”の鳥篭でしょ」と、あまり説得力もなく付け加えた。
「……ギャスケットって何」
「ゲルニカは教えてくれなかったの? 篭の底にある三角形の──」
「あの金網がギャスケット?」
「そう呼んでたわ、クーダがね。彼はギャスケットのことをよく知ってたみたいだけど……壊れた篭が一つあるでしょう。あれはクーダのせいなの。ギャスケットは天蓋で隠して持ってたのね、だからクリオネに食べられずにいたんだわ。クーダのこと知りたい?」
「いい……っていうより、絶対イヤ」
 サヤメの嫌そうな反応は生理的不快感を伴うそれに見えて、ノイにはバラクーダが少し可哀想にも思えた。きっとクーダは本来の物語の中で授けられた性格や役割を律義に守り通しただけで、正しく評価されれば魅力的な素晴らしい悪役であるに違いないのに……。
「この豪華林檎も、焼け残った老木そのものではないのよ。最後の実から取った種を誰かが持っていたのかもしれないし、昔のエニグマが巣作りのために運んできた老木の枝が運よく根を張ったのかもしれない。植物の記憶は次の世代に引き継がれるの、強い記憶だけが」
 テイルにした髪をコサージュで留めたサヤメに振り向くよう促し、
「でも人の願いを無制限に叶え続けることが罪だとしたら、この樹は私たちと同じね。ここで命を終えるために連れて来られたのかもしれないわ。ほら、すごく明るい印象になった。きっと着物ともよく合うわよ」
「ほんと? 見てみたいなあ」
 その会話はベー・ヴィクティスという深い罪の海の底でどこか不謹慎さを漂わせて聞こえたが、とがめる声はどこにもなく、萎びた夏草に付いた夜露のようにサヤメの気持ちを優しく潤した。
「ノイの知ってる物語はそれだけ? もっと聞かせて。わたし何か思いだせそうな気がする……」
「他にもあるわ、いろんな人に“聞いた”から。でもまた明日の夜にしましょう、もう眠そうよサヤメ」
「どうして明日の夜なの? 昼間でもいいよ」
 ノイは少し考えて、あたかも大切な約束事を思い返すような目をして、こう言った。
「お伽噺しは夜にするものだから」
 その声はコップの水に落とした粉薬が溶けながら沈んでいくように、サヤメの記憶の底までたどり着けずに消えてなくなった。

 そのあとサヤメは夢を見た。青い蛙が蛇に食べられる夢だった。なぜか蛇の胴体の後ろ半分は骨だけで、その隙間から逃げようと蛙が必死にもがいていた。

 夢のことを翌朝ノイに言うと「私? 眠っていて夢を見たことは一度もないわ。私は屍体みたいに眠って、その骸に宿る血の花のように目を覚ますの」と、さらりと笑った。
 ノイの過去は触れてはいけない領域なんだと、やはりサヤメには思えた。そして寝ながら考えたクリオネの名前だと言って、
「白いのがクピタで、黒いほうがクピトス」
 と伝えた。落とされた巣の中にキューピッドのような彫像があったから──。
「可愛い名前ね」
 ノイは母親の顔をして、そう応えた。
 このことを聞かされたゲルニカは、またヒメみたいに妙な名前を付けたのかと訝しがった。
「ペットの犬猫じゃないんだから……」
 ロングテイルの根元にコサージュを巻いたサヤメの髪については「ノイのおもちゃにされたね」と呆れていたが、
「まあ、似合っちゃいるよ。その着物とも」
 とサヤメを喜ばせる一言を社交辞令気味に述べておいた。



「……サヤメ、あんたこれ知ってるの。タトゥーみたいなの」
 サヤメの後ろ髪を観察している途中でゲルニカが気づいた。
「タトゥー?……って何」
「こういうやつ」
 ゲルニカは自分の左腕を指して言った。
「あたしのは詰まらないただのスローガンだけど」
「スローガンって?」
「……スロ……いや、いいわ」とゲルニカはそれには答えず、
「アザじゃないよね。すごくちっちゃいけど、ちゃんと模様になってるしさ」
 覗き込んだノイにも、それはタトゥーにしか見えなかった。
「ホントね。昨日は暗くて見えなかったわ」
「どんな模様? どこ?」
 うなじの右側あたりにゲルニカの冷たい指先が当てられた。
「何かな……なんかのハネ? 葉っぱ?」
 爪ほどの大きさしかない黒ずんだ模様は、夜に棲む小動物に与えられた翼の一枚にも見えた。
 たとえば、それはコウモリの。



《つづく》

次回

3rd End 『 失楽園のハイドラ、』


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