薄く半円に盛られた白い砂が教えるのは、その下に臥す少女の小さな大きさだった。弔花の一握りも手向けられていないのは、ここには活きた花が咲かないからだ。
 砂を払った手を合わせることも、再び膝を落として冥府に祈ることもゲルニカはしない。ベー・ヴィクティスで命の果てた者が神様に召されるはずは無いし、ましてや空に吹く風となって自分たちを見護って欲しいなどと頼むのも悪い冗談だと彼女は思う。
 真昼の烈しい日射しの群れは身体を食いちぎる。
 だから鯊鵺天媛女(さやあめのひめ)の柔らかな骸は、ベー・ヴィクティスの天蓋で最も大きな龍舌蘭の葉の蔭に埋められた。そこは猛禽の眼光をした白日からようやく逃れることのできる、少しだけ穏やかな場所だった。
 風景画に潜む輪郭の無い人物のように、何もなく、せめて別れの言葉をじっとゲルニカは考え続けた。クリオネの昂ぶる鳴き声が自分を威嚇しているものか、ヒメを悼んでいるのかは判らない。

 鯊鵺天媛女の物語は、こうして終わった。





1st End 『 ジュリアの鳥篭、』

 羽根を展げて飛翔する鷲頭獅身の姿は、神話のグリフィンと何ら違わない。ただ全身が漆黒だった。
 鉤爪が災禍の獰猛さで胸を緊く締め付ける。無数に飛び交うガラス細工に似た蝶をパピリオ・ヴァチカニアと呼んでいたことは、もう忘れていた。水気を含むスカートがしきりと両脚に纏わりつきたがる感触は気味が悪い。
 真っ赤に濡れたドレスを着ていることに少女は初めて気づいた。
 その理由を少女は知らない。
 乱舞していた蝶がふいに散り、紅い雲にその半分を覆われた星空が目の前に拓けた。薔薇の香りが一瞬漂って、掻き消えた。この明確な錯覚は、それが紅い雲ではなく花状の壮大な星雲を見ているのだと、自分自身に虚ろに解らせてくれた。



 眼下にあるのが海だと知るのは空より簡単だった。水平線まで広がる波面が星明かりを幾重にも緻密に砕いているからだ。
 柱状の高い構造物が海上に突き出ているのが朧げに俯瞰できた。無数の光がわらわらと蠢いて、中央部は暗く陥没している。巨大な塔が海から無造作に生えているように見える。次第に迫るその容姿は、水面に展く睡蓮の可憐さにも決して劣らない禍々しさだった。
 降ろされるというより振り落とされる浮遊感、と同時に身体が激しく打ち付けられ、握っていた何かが手から離れた。
 そこは塔の天蓋にある巣だった。おびただしい数の金色の装飾品が散乱している。翼の折れたキューピッドらしき像が視界の端をかすめた。
 最初に少女を咥えたのは白いほうだった。挟んだ嘴(くちばし)が少女を放り飛ばすと、すぐさまもう一羽が前脚で押さえた。こっちは親と同じで黒い。白と黒の二羽は親より一回り小さく、ちょうど大きな馬ほどの背丈をしていた。
 地面に撥ね飛ばされた少女を咥え、また撥ね飛ばし、また咥え直し……、まるで捕らえた獲物に興奮している二匹の仔猫だった。獲物を弄ぶ子供たちを、親は彫像のように黙って眺めている。
 わたしは餌なんだ、と少女は静かに悟った。
 食べられて、死んじゃう。
 食べられる前に、死んじゃう。
 でも不思議と怖くはなく、この子たちを愛しいとさえ感じる。そんな自分が何故だか誇らしくも──。
 痛みに麻痺する意識の混濁に紛れながら、着ているドレスを赤く濡らしていたものが血であることにようやく気づいた。
 身体が勢いよく宙に舞う──。
 解放感に、ふっと思考が途切れた。
 天蓋の中央に空いている穴の底めがけて少女は墜ちていく。
 その暗い穴の縁で、幼い二羽は落とした餌の行方を名残惜しそうに見つめ続けていた。

 水窟に没した餌は浮草のように水面まで戻ってきた。ノイが引き上げた少女のドレスは胸元が小さく上下していた。
「水は飲んでないみたい」
 浅黒い背中を向けたノイの髪から、水滴が音を符して裸足の際に溜まっていく。



 擦り傷やアザにまみれた手足が痛々しく見えすぎるのは、この少女の素肌の白さゆえかとゲルニカは思った。
「寝てる子を指でなぞるのは、かなり高尚な趣味だって聞いたわ」
 ノイはいつものように、ちょっと皮肉めいてゲルニカを諭す。
 骨の折れたような違和感や腫れた肉に指の圧し返される感触は、少女の身体のどこにもなかった。その運の強さにゲルニカは呆れた。
「あんまり触るから、ほら」と、ノイ。
 薄く割れた瞼の間で少女の眼が不安げに動いた。勝手に曲げ伸ばしされている肘の先をベビーブルーの瞳が振り子のように追う。
「そんな顔しなくていいよ。少し腕上げて、……あんた華奢ね」
 されるままに少女はしていた。ゲルニカの手から伝わってくる力は、さりげなくて心地好かった。心地好い喜怒哀楽の一つに似ている。
「綺麗な髪。こういうの何て言ったかしら、マルガリータブロンド?」
 艶やかなノイの声に寄り添って、低く揺らぐ水音があった。
 音は泉から湧いていた。泉の向こう側は暗くて見えない。小さな光が点々と周囲にあって、見上げると編み目のように折り重なる枝葉の間を、星にしては多すぎる光のイルミネーションが遥か上までちらちらと動いている。太い樹幹がすぐ後ろに降りていて、何本もの根が水の際に向かって地面を這っている。泉は重い音を産み続けていた。
 まるで深い淵の底で呼吸だけができる──。



 少女は身体を小さくすくめた。あちこち裂けたドレスを着せられていることを、どうしてかなと思う前に嫌だなと思った。もしこれがわたしのドレスなら、もっと嫌だな、と。
「……寒いの?」
 ゲルニカの問いに少女は嗄れた喉を絞って、うん、と頷く。
「脱いじゃいなさい、濡れたままじゃどんどん冷えてくよ」
 ドレスは既にドレスと呼ぶには無理があった。身体から剥がすと破れた白い布きれになって地面の上に薄く潰れた。下のパニエもやはり裂けて膨らみこそ減っているが、まだこっちはパニエと呼べる。
 ドレスを棄てても寒さは変わらなかった。ただその嫌な重さのぶんだけ気持ちは軽くなった。
 前にも後ろにも、少女の身体のどこにも大きな傷痕が見当たらないのを確認して、
「……ドレスのあれ、誰の血?」
 険しい顔でゲルニカが訊いた。少女は答えられずにいた。
「もう流れちゃったけど、すごい血で染まってたよね。あんたのじゃないよね」
 ゲルニカは少女の眼を見ず、ノイの方を見た。
「だめよ」ノイは服を着終えていた。「ぜんぶ忘れてるわ。自分の名前まで」
 わたしの……?
 名前を思い出せないことを、少女は自分の心ではなくノイの言葉で初めて知った。
 けれどそれはきっと些細な事に違いない。
 この寒々と襲いかかる喪失は、名前なんかよりずっと大切にしていたものが消え去った冷たさ……──。
「いいのよ、思い出せなくても。あなたを必要とする場面(セーヌ)は、すべて終わったはずだから」
 ノイは少女の背中を長い着物で隠すように包んだ。青地に花の絵が咲いていた。
「似合うわね、私よりもずっと。なんだかヒメみたい……ね、あなたのことヒメって呼んでいい?」
 ノイは嬉しそうに言った。
「やめなよ。ヒメに悪いよ、そういうの」
 眉間を皺めてゲルニカが苦い顔を背けた。ノイは微笑みを崩さず、
「じゃあサヤアメ……、サヤメならどうかしら」
「あたしじゃなくて、この子に聞きなさいよ」
「……サヤメ?」
 少女はもう嗄れていない声で繰り返した。
「サヤメ」
 その声で詠まれた名前が着物よりいっそう似合っていたので、これが少女の名になった。
「ここは、どこ」
 初めてサヤメは自分から喋った。
「ベー・ヴィクティス」とゲルニカは言った。
「……ベー……ヴィク……?」
「ベー・ヴィクティス。この塔の呼び名」
「あなた自身の物語(レシ)の続きを最期まで綴る場所よ」とノイが言葉を接いだ。
「……レシ……」
 その意味を掴みかねて困惑しているサヤメに、ゲルニカが応えた。
「簡単に言うと、死ぬところ」
 じっとりと湿った空気のせいで、身体はいつまで経っても乾かないように思えた。

 泉に見えた水窟の周囲を装飾も何も無い壁がぐるりと円形に立ち上がり、吹き抜けが空に途切れる高さまで藹々と巨樹の枝が生い繁っている。深い縦穴の底から見上げている小動物の気分だ。
 壁は人によって造られたようには見えず、岩肌のような粗暴さも持たない奇妙な有機的テクスチュアをしていた。
 何枚もの葉を浸透して植物性になった柔らかな光の靄に紛れて、巧みに生き残ったわずかな直射の、きらつく破片があちこちで震えたり躍ったりしている。昼でも薄暗く涼しいが、空気は相変わらず粘っこい。水分が尋常でなく多いのだ。
「次はそっちに右足かけて……そう、その枝。ノイよりは上手ね」
 一本のロープが巨樹の幹に沿って、太い枝に何回か巻きつきながらずっと上まで伸びている。等間隔の結び目は手を滑らせないためのゲルニカの工夫だ。妙に身体が軽く感じるのは、たぶんここの重力が小さいからだと説明された。重力というものを、しかしサヤメは理解しなかった。
「これ何の樹?」
「リンゴ。無駄な期待する前に言っとくけど実は成らないよ。花が咲かないから」
「どうして」
「今度ノイに訊きな。ほら、あたしじゃなくて上見て」
 昨夜あれほど痛々しかったサヤメがそれを感じさせない身のこなしで登っていく姿に感心するのが精一杯で、アザや傷がほとんど消えていることにゲルニカは違和感を抱かなかった。おそらく子供じみた単純な、たとえばお伽噺しの絵本のような物語に生きていたとするなら、それも納得できる。そして内心、少し羨ましくも思う。
「どうやって出入りするの、これ」
 人の背丈に合わせて作ったようなその篭(ケージ)は、何本もの枝に編み込まれるようにして引っ掛かっていた。それは果実と比喩するには躊躇われる大きさだった。
「手前の骨組みが一つだけ抜けるの。重いから両手で掴んで真上に……そうそう」
「パズルみたい」
 人ひとりが通れる隙間ができて、サヤメは身体を中に入れた。
 言われたことに疑う素振りを露も見せないサヤメの態度は白すぎてゲルニカは好きではなかった。そんな純真な人間がここに運ばれて来るわけはないからだ。ベー・ヴィクティスは泥のような嘘にまみれた者や償えない大罪の枷(かせ)を引きずる者に、くだらない死に様を与える場所だ。ノイのように本心を見せずに距離をおく不透明なタイプのほうが、いっそ気楽でいい。



「部屋にしては、ずいぶん変なかたちね」
 篭の底に敷き詰められた羽毛には、着物と同じ葩(はな)の香りが微かに残っている。赤い鼻緒の草履が揃えて置かれていた。
「サンダルもいいの?」
「いいよ。あんたが嫌じゃなければ」
 少し小さいかなとサヤメは感じたが、それはかえって都合よく、履いたまま樹を登っても足から脱げ落ちそうにない。
 この篭も草履も羽織っている着物も、鯊鵺天媛女という少女が生前に使っていたものだそうだ。
 その“ヒメ”は天蓋の砂の下に葬られた。履物を埋葬しないのは死者が墓から出て家に帰って来ないようにという意味がある。これはゲルニカの育った土地の慣習で、誰かが履いてあげることもまた、死者に対して魂の居場所がもう地上ではないと示す寓意的行為であるらしい。
 しかしヒメについては何も、サヤメは聞かせてもらえなかった。
 本来一切の観劇者を排したベー・ヴィクティスで生じる出来事は、数多衰勢万象たる物語世界の現実において放棄された“罪悪人への処罰”を代行するためだけに在る。いわば作劇律の密かな自涜行為に近いとゲルニカは言う。それは神聖な穢れた儀式で、見知らぬ他人に物語るものじゃない、と。
「夜はこの篭の中で寝てれば、もしクリオネが──」
 サヤメを玩具のように振り回した白と黒の二羽の幼鳥は、グリフィンではなくクリオネと呼ぶのだそうだ。そして真っ黒な親はエニグマと呼ぶ。
「──クリオネが下まで降りて来ても大丈夫よ、たぶん」
「たぶん?」
 ゲルニカの言葉尻をサヤメは不安げに問った。
「絶対って言って欲しければ絶対でもいいけど。篭の下に三角形の金網みたいなのが嵌まってるでしょ、三角でマトリョーシカみたいになってる模様の。それのおかげで──」
「……マトリョーシカ……」
「あのほら、こんなカタチで丸っこい人形になってて開けると中に同じのがあって、それ開けるとまた中に人形があって、だんだん小さくなっていくアレ……、知らない?」
「丸っこい人形……」
 小鳥の仕草を真似ているかのように、サヤメは何度も瞬いて首をひねった。
「とにかく、それがあるとクリオネは篭に近づかないのよ。だから外れないようにしっかり注意しなさい」
「どうして近づかないの」
「さあね。護符(おまじない)みたいなもんじゃない?」
 普段は天蓋の外にいるクリオネが内側に降りて来ることがある。巣立ちが近くなり、エニグマが餌を与えなくなったときだ。それをゲルニカは二度、ノイはもう何回も見ているらしい。
「じゃ、今は安心? 巣立ちの時期っていつ?」
「……あんた喰われかけたのよね」
「喰われかけた」
「なら、もっと“餌”としての自覚持ったほうがいいよ」
「ゲルニカも餌? ノイも?」
「そうよ。でも喰われずに巣を逃れたから、こうしてまだ生きてるの。他に訊きたいことは?」
 サヤメはそれが最大の疑問とでもいうように、頭の上から垂れ下がる二本の鎖に両端を縛り付けられた頑丈そうな枝を怪訝に観察している。指先で押したり、撫でたり、つついたり……。
「ああ、それね。……何に見える」
「…………拷問道具」
 あまりの意外な回答にゲルニカは大笑いしながら声も出なかった。
 真面目に言ったつもりだったので、そんなゲルニカの反応がサヤメにもまた意外だった。
「違うの? じゃあ……鳥の止まり木……、ブランコ……とか」
「に見えるよね普通」ゲルニカは言いたいことを嚥み込んで、「これの名前さ“ジュリアの鳥篭”なの。四個ぜんぶにブランコみたいなやつ付いてるのよ。でも、あたしは取ったけど」
「ジュリアって誰? 作った人? 鳥の名前?」
「さあ……」
 目に見える対象の本質はどこかへ飛び去ってしまい、しかし呼び名だけは薄っぺらな形の骸と化して世界にしがみついている。まるで蝉の幼虫(オモ)の抜け殻みたいよね、とゲルニカは一笑した。
 二人はロープを伝って、夜明け前の蝉の幼虫のように樹幹をどんどん登って行った。
「だって馬鹿みたいじゃん。カナリアじゃあるまいし」
 ブランコを外した理由をゲルニカは後でそう言った。邪魔なら取ってあげようかという申し出を遠慮して断ったことを、サヤメは少し後悔した。吊してある枝を忘れて、起き上がったとき頭をよくぶつけるからだ。何かの布で作ったらしきハンモックに揺られるゲルニカは、サヤメのうめき声が聞こえてくる度に「やっぱり取ってあげようか」と心配そうに言うのだが、意固地になって「いい」とサヤメはいつも答えるのだった。ノイの篭からは一度もサヤメのように痛がる声はせず、ゲルニカのようにサヤメを気遣う言葉もなかった。



 ロープの先は樹冠を越えてベー・ヴィクティスの天蓋に続いていた。
「すぐに済むから」
 短い距離とはいえ足場も無く釣り下がる頼りないロープを、ゲルニカは慣れた様子でするすると上がって行く。残ったサヤメは遮るものの無い灼けつく日射しの残像に重ねて、その華麗な技を見届けた。ちょっとした感動に口の中が乾いて痛い。
 近くの壁に目を凝らすと、小さなトカゲが何匹も張り付き、過激な太陽に向かって惚けた口を皆ぽかりぽかりと開けている。夜、動く星明かりのように見えたものの正体だった。
 光蜥蜴(ヒカリトカゲ)は昼間こうして日光を食べておくのだそうだ。そして鳳凰蝶(ほうおうちょう)を捕食するために、エニグマが巣に還って来る夜になると活発に動く。鳳凰蝶とはサヤメが見た、いくつもの物語を自由に渡るという翅の透けた蝶の群れのことだ。その渡りの道は異なる時空間を結ぶイーヴァムと呼ばれる経路で、イーヴァムのエントランスを拓けるのは鳳凰蝶とエニグマだけの────。
「落とすよー」
 声のした方向から逆光に投げ込まれた一抱えもありそうな束が、色濃く繁る枝葉を巻き添えにその悲鳴も構わず真っすぐに墜ちていった。断ち切られた青葉が痛々しく飛散し、うら寂しい水没音が反響しながら昇ってきた。
 サヤメはそこに自分の姿を重ねてみた。ぞっとした。
「あんた、あれでよく生きてたね」
 上がって行ったときより数段の早さでゲルニカはロープを滑り降りてきた。
 底に降りるまでのあいだ、サヤメは徐々に隠されていく太陽だけを一途に見つめた。四つある“ジュリアの鳥篭”の一つは壊れていて、あの三角形の金網が無いから使えないと言われても、それを目に留めることはなかった。

 天蓋から採ってきた龍舌蘭のぎざついた葉片は、絞った汁が驚くほどよく泡立った。身体を洗う石鹸がわりに使えるのだそうだ。堅く干せば針も作れるし、ほぐした繊維は糸にもなる。
 細長い茎に鈴なりのナツメヤシに似た房は龍舌蘭の実ではない。大粒のプルーンほどの黄色い表皮を剥くと粉っぽい顆粒状で、実か種か判らないものがたくさん詰まっている。口の中で潰すとプチプチと割れた。その食感を「魚卵(イクラ)みたいでしょ」とゲルニカは言うがサヤメには通じない。ゲルニカの喩えは、たいがいサヤメには通じなかった。ノイは「サヤメはあなたとは住んでる世界が違うのよ」と皮肉ったが、皮肉にしては真実すぎていて三人とも納得するしかなかった。味はやはりナツメヤシに近くて甘い。甘すぎて空腹を満たす前にサヤメは食べられなくなった。
「慣れるまでは、なるべく噛まずに呑み込むのがコツよ」とゲルニカは葡萄のように淡々と摘まんでいた。
 三粒ほど口に含んだあと、ノイは自分の篭に入って何かを縫っていた。細かく裂いた白い布があの棄てたドレスであることを、サヤメは少し経ってから知った。




 空の高い位置に静止してほとんど動かない太陽が急速に光を弱め、やがて完全に灯が消える。これが昼から夜への転換だった。
 人の呻き声とも聞き紛う水窟の環流音に、まだ耳の慣れないサヤメは、なかなか寝付けなかった。そこらじゅうに煌々と張りついている光蜥蜴が“ジュリアの鳥篭”には一匹も入って来ない。それが三角模様の金網のせいなのかはよく解らない。
 敷かれた羽毛はぜんぶクリオネが雛だった頃の綿羽だそうだ。寝転ぶと顔が埋もれるほど深く、鳥臭さや獣臭さは微塵もない。ヒメの残した葩の香りだけがある。
 そのささやかな移り香は異国情緒あふれる清楚な少女の、黒髪垂れる後ろ姿をサヤメに空想させた。
 けれど自分自身のことは空想すら叶わなかった。
 わたしはどこから来たの──。
 どうしてここにいるの──。
 知ろうとする試みすら闇の中の手探りだった。指先に何かが触れた瞬間、なんだか恐ろしげな刺々しい感触があって思わず振り払ってしまう。何度やっても怖い……。
 水窟の真水はベー・ヴィクティスが海水を濾過して吸い上げているという。海はミルク色だったでしょと言われても、はっきりとは思い出せない。夜空に大輪の薔薇が開いていたこと、それが星の姿のひとつであることは知っている。でもそれ以外に何を知っているのかが分からない。
 何を知っていて、何を知らないのかを、わたしは知らない──。
 羽の筵を立ち上がろうとして、ゴガッ、と鈍い音のあとサヤメは頭を抱えた。中途半端な高さに堅い枝がぶら下がっていることをすっかり忘れていた。
「なに今の、サヤメ?」
 暗闇の向こうからゲルニカの声がした。
「……あたま打った……」
「取ってあげようか、それ」
 にやついているのが口調で分かる。
「……いい」
 痛みが治まってくるとサヤメは音をたてないよう静かに篭を出て、光蜥蜴の明かりを頼りに素足で樹を登った。天蓋へ近づくにしたがってその数は増し、満ちた月明かりほどにも周りがよく見える。月の光が太陽の照り返しであるのと同じく、陽光を食べた光蜥蜴の灯もまた月色なのだ。その生き物は──〈月は夜空のどこにも見当たらなかった〉──きっと知らないくせに。

 途中、干からびた光蜥蜴を樹皮の窪みで見かけた。胴体からは細長いキノコの柄のようなものが一本、にるりと生えていた。
 おそるおそる伸ばした指が触れたとたん、その柄は無抵抗に切れて深い暗がりの底へ逃げるように落ちていった。

 樹冠を越えて天蓋へと懸かるロープを、蜘蛛の糸に必死で縋る亡者さながらに、ゲルニカの何倍もの時間をかけてひたすら上がった。
 尖った葉の密集した龍舌蘭があちこちに点在している。ナツメヤシの房に似たあれは葉すら持たず、たわわな球果の重みでしなる茎が地面から直接突き出ていた。
 クリオネの姿はなかった。眠っているのかもしれない。巣はどこなんだろう。反対側なのかも……。
 凍った爆発のような紅い星雲が満天の視界の半分を占める絶景は、ベー・ヴィクティスが『死に場所』だというゲルニカの言葉を覚悟させるに余りある威力だった。
 この天蓋に立って仰ぎ見た、おそらく誰もが思っただろう。
 もういつ死んでも悔いはない、と──。
 乳白色に広がる海は緩やかに弧を描き、荘厳なこの空を真似たくてたまらず、我が身の半分に空を紅く写し取っていた。



 自らの生きてきた物語(レシ)で大罪を犯しながら、その報いとして被るべき“死”の記述を与えてもらえなかった者が、密やかに自分の物語の幕を綴じるところ。
 彼らをしてその名は塵より軽く、その身は芥も残らず、こう蔑まれる。
 “憐れなるかな敗北者(Vae Victis)”──それはラテン語であった。
「でも、わたしが知りたいのは“なぜ”なの──」
 咲き誇る紅い夜空にサヤメは問いを掲げた。光蜥蜴の白い光の列が、送り火のように砂の上を埋め尽くしていた。
「なぜ、わたしは、ここにいるのか。その“なぜ”を知りたい──」
 もうすぐエニグマがイーヴァムを拓いて戻って来る。どんどん増えている夥しい光蜥蜴がその兆しだった。
 ……あ、──。
 サヤメは、ふと思い出した。
 巣に落ちる前、わたし何か手に握ってた……。
 手のひらの感触を思い返そうとして視線を下げたとき、
「!!────」
 背後から不意に髪が掴まれ、肩から地面に叩きつけられた。飛び散った砂粒が口に入り込んだ。
 サヤメの視界を貪るように、その形相は汚れた布の下から睨んでいた。
 周りの肉まで見えるほどに大きく剥かれた目玉は、眼窩からずぼりと抜け落ちるのではないかと思われた。呪詛めいた何かを叫ぶように動く唇から、声ではなく吐気だけがひゅるひゅると漏れている。舌は孔の中に無かった。
 唾が顔に落ちて、サヤメは震えた。
 男の片腕は肩の付け根を越えて胸に至るまでごそりとえぐられ、骨でも神経索でもない金属めいた何かが生えていたが、そんなことには構わず、サヤメは腹をもう何度も蹴っていた。五回、六回、七回、──。
 男は離れなかった。押し返される膝から、割られた砂時計の砂のように力が抜けていく。
 息苦しいのは、はっきりと殺意と分かる握力に首が潰されかかっていたからだ。指の形に喉が両側からへこんでくる。目の中で光る埃が羽虫のように何匹も飛んでいる。脳の視覚野に近い血管が切れかけて閃輝性の錯視を起こしているせいだ。
 頸から上は火のように熱くなり、身体だけが冷えて浮き上がる奇妙な感覚が襲ってきた。痙攣が始まろうとしていた。
 びゅん。と、ふいに男が高く撥ね上がった。
 落下してくるそれに黒いクリオネが勢いよく飛びつく。
 奪い取った白いクリオネが、咥えて再び高く振り飛ばす。
 ぐしゃり。と何度目かに地面に落ちたとき、男は既に生き物であることを終えていた。それは単なるグロテスクな形態の餌だった。
 みるみるうちに男の全身は綺麗に喰いつくされ、剥き出しになっていた金属らしき欠片すら残らなかった。
 サヤメは定まらない視線でそれを傍観していた。自分の身に起きた事象を把握できないまま、この無残を盲人のように凝視した。
 クリオネたちの眼の焦点が、もう一つの餌を捉えた。
 餌は想った。
 ……わたしも……ああなるの?
 脚がもつれて身体がどこにも進まない。口に入った砂が、ざらついて苦い──。




《つづく》

次回

2nd End 『 豪華林檎と罪の海と、』


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